あのね、僕はもともと臨床家育ちではなく、理論好きの実験屋だったんですよ。だから、遅咲きの遅れてやってきたど素人の家族療法家っていうかね。家族療法とかシステム療法の学徒ではあるけれども、自分の自覚としては臨床家ではないのね。
この道40数年、家族療法の世界に入っておよそ20年くらい。僕なりにそこそこ臨床経験も積み、まじめに勉強はしているわけですよ。でも、どうしてもプロ意識がもてなくてね。困ったもんです。
僕が家族療法に首を突っ込んだ頃は、河本英夫さんがオートポイエーシス理論を紹介なさってた頃で。第一世代と第二世代のシステム論は家族療法ですでに使い尽くされていたって感じだったのね。だからまだあまりポピュラーじゃない第三世代のオートポイエーシス理論をシステム療法に適用したら、なにか新しい道が開けるのではないかと。
そうしたら、オートポイエーシスが僕の頭の中で2つの領域に結びつきまして。ひとつはナラティヴ・アプローチです。アンダーソン、グーリシャンのコラボレーティブ・アプローチとか、アンデルセンのリフレクティング・アプローチであるとか。あー、ナラティヴじゃないかと。オートポイエーシスをナラティヴの産出機構、ナラティヴを生み出すメカニズムがオートポイエーシスじゃないかって考えが浮かんでね。もうひとつは、もともと僕は仏教とか東洋思想好みでしたので。オートポイエーシスの勉強をはじめてみたら、なんだ仏教の考え方と似てるじゃないかって感じたんですね。例えば、鴨長明の方丈記です。「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」って。
山)たしかにオートポイエーシスですね。
そのあとも、「淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」と続くわけですよ。つまり、川の流れに浮かぶ泡は生まれたと思ったら消え、消えたと思ったら現れて、それがずーっと続いていく。オートポイエーシスと同じ表現じゃないかってね。
別の例ですと、「自然」って言葉ですけれども、西欧の方でネイチャーっていうと「物の本質」という意味ですが、中国では「宇宙の秩序」みたいなのを自然と言うわけですね。それに対して日本の自然は、自然の〈然〉は「しかる(そうなる)」ということですし、何が「しかる」かというと、自の字は「みずから」とか「おのずから」っていうことだから、"みずからそうなる"って。そうするとオートポイエーシスになるでしょう?
山)おー!
だから、日本の東洋自然主義はオートポイエーシスそのものだって読めるわけですよ。
山) そうするとオートポイエーシスは日本の文化になじみやすいという?
僕に専門というものがあるとすれば、東洋思想や仏教をベースにしたオートポイエーシスでしょうか。ベイトソンを読むときも、どうしても仏教思想を通して読んでいました。「こりゃ、仏教の経典にはこんなことが書いてあるぜ」って。
例えば、ベイトソンで二重記述とかダブル・ディスクリプションとかいうでしょう。教師が生徒を教え、親が子どもを育てる、というけれど、先生はどんな風に教えたらいいかっていうのは生徒に習うしかないわけでね。親もどんな風に子育てしたらいいかって、子どもに習うほかないわけですよ。ダブル・ディスクリプションでは、一方が他方へ働きかけたら、他方は一方へっていう感じで。そうしたらもう原因も結果もないわけですよね。原因が結果で、結果が原因。ダブル・ディスクリプションと横文字で言われるとなんかすごく新しいことのように思うけれども、仏教はで2千年も前からね、例えば「色即是空」といったら、「空即是色」と必ずひっくり返して表現するでしょう。この二重記述のやり方は仏教ではごくふつうでね。ダブル・ディスクリプションは仏教ではなじみのことだと。
そういう読み方するわけです。「ドーミティブ原理」を否定してベイトソンは「関係の先行性」、「まずはじめに関係ありき」と言うけれど、仏教では縁起(えんぎ)のことですね。すべては縁で生ずるんです。縁というのは関係のことですね。すべては縁(関係)によってひき起こされるわけですから、縁が生じなければ何も起こらない。これを「縁起なるものは無自性空(むじしょうくう)である」と言います。つまり縁起なるものは空だと言うんすね。自性というのは物の性質がそのもの自体で存在している、関係とは無関係にね。だからベイトソンのドーミティブ原理は仏教では自性ということになるんです。
よく十島先生は鬼か仏かって学生から聞かれるんですよ。僕は鬼でもなければ仏でもないって。でも関係次第で鬼にもなるし仏にもなるし。今日のインタビューは仏関係で(笑)。学生が単位落としてもらいにやってくるでしょう。その時は、僕は絶対やらんと鬼にならざるをえませんね。だから関係次第で鬼にもなれば仏にもなる、これが空の考え方なんです。
山) 家族療法の初期の先生方も東洋思想を学ばれてる方が多いような気がします。
本当にはずかしいことですが、自分たちがもっている大切な宝を、横文字で言われれば皆な飛びつくのに、日本語で言っても抹香くさいっていって。西洋合理主義が行き詰って、なにか新しいものを求めようとすると、東洋にはこんな考え方があるじゃないかと。向こうの人にとっては目新しい。でも、こちらにとっては当たり前過ぎて気づかないんですね。
専門は?と尋ねられると、システム療法やナラティヴ・アプローチにオートポイエーシスを取り入れる仕事かな。ただし、いわゆるオートポイエーシスっていうんじゃなく、仏教的、東洋的なものを土台にして。
ご覧下さい(学会でのワークショップ資料)。「T式カップル言語連想法(T−CWA)」。これは、今言ったことをただ抽象的にではなく、ひとつの技法として具現化したものなんです。このTは十島のTでして。ふつうにいう言語連想はユングタイプの連想法です。ご存じのように、これはあらかじめ用意された刺激語にただ一方向的に反応するだけで、被験者はきわめて受動的なんです。「カップル言語連想(CWA)」は、これとはまったく異なって、ふたりの間で単語で交わし合う会話のことです。
山) 先生の『家族システム援助論』の中でV型とW型というコミュニケーションが出てきて、V型は一方通行で切れてしまうけど、W型でつながっていくという。
そうですね、お互いが次々と連想語をつなぎ合って切れ目なく連想の流れを作っていきます。相手の連想語を聞いて自分の心に浮かんだ思いをひとつの単語に凝縮して相手に返すのです。とことん言葉の冗長さを削ぎ落として単語に圧縮します。そこに「沈黙」が生まれますよね。その沈黙ゆえに言葉が深みを増すことを期待しているんです。
おととい家族心理学会で「CWA」のワークショップをさせていただきました。皆さん「こういうやり方もあるんですね」とすごく興味をもってくれました。欧米はやはりキリスト教で、まず「はじめに言葉ありき」の世界ですからね。それに対して、東洋は「沈黙」を重んじて、言葉は使わないというか、言葉は仮論(けろん)。といいながら仏教ってものすごく言葉を大切にするんですけれども、言葉を立てない(不立文字)。
自分の考えや感情をぺらぺらしゃべるのではなく、言葉を抑制すると、不思議なもので思いが深まります。でもその深い思いをひとつの単語に凝縮して表現するのはとても難しいことです。皆さん自分のボキャブラリー不足を痛感されたみたいです。
日本に俳句ってあるでしょう。蕪村に「菜の花や 月は東に 日は西に」という句があります。この17文字の中に全宇宙が表現されているわけですね。「CWA」も同じで、〈思い〉のすべてがひとつの単語に投影されます。そして、刺激語は反応語、反応語は刺激語という関係でずーっとつながってゆくのです。僕はそれだけでいいなーって思っているんですが。
でもそれだけでは意味が通じないので、30回ずつ計60回実施した後で、一連の連想語について「リフレクティングする会話」を行います。アンデルセンのリフレクティング・プロセスから得た発想です。一つひとつの連想語について「それを言ったとき、何を考え、どう感じていたか」に再度思いめぐらせながら語り合うのです。セラピスト側もきちんと自分の思いを自己開示しなければなりません。これコラボレーションですからね。そこに深い思いに根ざした新しいナラティヴが会話のなかで展開されることを意図しているのです。
山) すごいナラティブ。オートポイエーシスですね。
まったく知られていません。なにせ本邦初公演ですから。でも皆さんすごく楽しんで下さいました。
山) よくチームリフレクティングとかありますが、お互いの会話について、後ほどお互いにリフレクティングするっていうのは面白いです。
CWAの終了後に、クライエントとセラピストが一対一で、一つひとつの連想語についてお互いの思いをリフレクションしながら会話していくのですが、CWAでとにかく大切なのは言葉を極端に削ぎ落として、沈黙をふくらませること。あたかも禅問答でもするかのようにです。これって東洋的でしょう?
山) 円環的質問法とかありますが、それよりは単語に削ぎ落としたほうが、言葉に対する反応というのも単語になるというコミュニケーションの関係性を狙ってるってことなんでしょうか?
言葉をとことん削ぎ落とす。無駄な言葉は使わない。そうすると相手や自分の言葉に対する感受性が研ぎ澄まされます。ぜひ一度試してみてください。ただし、ふたりの思いが深いレベルで響き合うように「CWA」を進行するためには、「沈黙」の間合いの取り方など、セラピストには経験の積み重ねによるかなりの熟練が必要になります。
今お話したようなことをね。真剣にやってはいるんですが、専門といえるかどうか。